モズブログ

一歩進んで一歩下がる毎日は進む

20190721昼_写真と記憶の話

今週のお題「空の写真」

 

去年の8月の写真かな

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ばあちゃん家の近くを散歩途中(記憶色増し)

 

 

 

 

 

これからは思い出話

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ばあちゃん家は、小さい頃には父と母と妹と私の家族4人で毎年、お盆と正月と(ときどきゴールデンウィーク)に帰省していた。ばあちゃん家にはいとこたちも帰ってきていて、みんな歳が近いこともあって楽しかった。毎年ばあちゃん家に行くのをとても楽しみにしていた。

 

私が小学生くらいの頃は、夏休みに突入すればすぐに子供たちだけでばあちゃんの家に行っていた。父と母は仕事やパートをしていたから、お盆になると後から遅れて帰ってきて、お盆が終わるときに子供たちを連れて家に帰る。

 

ばあちゃん家の朝はラジオ体操に始まる。今はどんなか知らないけれど私が小学生の時はラジオ体操が夏休みの宿題のうちのひとつみたいになっていて(やらなくてもよかったのかよく覚えていないけれど、夏休みの宿題と共にラジオ体操カードと首にかける青いビニールのヒモが配布されていた)半強制的なものだったと記憶している。

朝早くに子供たちだけで眠っている2階の部屋にばあちゃんが上がってきてみんなを起こす。朝ごはんより先に、歩いて5分弱の近所の公園までみんなでぞろぞろ行って、近所のじいさんばあさん子供たちに混じりラジオ体操をした。自宅の近くのラジオ体操はラジオ体操第一まででよかったのに、ばあちゃん家の近所のラジオ体操は第二までやらないとならなかった(のちに高校生になった時に体育の授業でラジオ体操第二を真剣にやらされるのだがその時に役に立つこととなる)。ばあちゃん家の近くのラジオ体操は何故か参加してもラジオ体操カードにスタンプを貰えなかった。だけど新学期が始まったらラジオ体操カードを提出しないとならないので、ちゃんと毎朝ラジオ体操に通った証としてばあちゃんがシールを買ってきてくれて、体操が終わり ばあちゃん家に戻るとみんなのカードにばあちゃんがシールを貼ってくれた。

 

朝ごはんを食べ終わると夏休みの宿題をする時間が始まる。大人たちはほとんどがお盆に入ってからばあちゃん家入りするのだが、叔母(ばあちゃんの娘にあたる)だけは世話係だったのか子供たちと一緒にいつも一足早くばあちゃん家入りしていた。叔母の監督の下、各々が決められたページ数のドリルやらプリントやらを進めていた。早く終わった者から遊びに行けるので、なかなか進まない課題と向き合うこの時間だけが大嫌いだった。いとこたちは各々学校が違うので、出される課題のボリュームの差を感じては、いいなあ〇〇の学校は、、なんて僻んだりしながら、僻んで減るわけでもない課題を進めた。

 

 

男の子たちがゲームに熱狂している最中に女の子たちだけがばあちゃんに呼ばれておやつに白玉団子を一緒に作ることがあった。団子のタネをばあちゃんが作ってくれていて、基本的には丸い形にするのを手伝うのだけど 途中から長細いのや やけに大きいのやら好き勝手な形を作った。沸騰したお湯に形を作った団子を落とすと沈んで、しばらくしたらポツポツと団子が浮かんでくる。それが出来上がりの合図で、ザルで掬って皿に移す。自分が作ったのを探しながら、これが誰が作ったやつだとか互いに確かめ合いながら、色んな形の白玉団子を黄粉砂糖につけて食べた。美味しかった。

 

一番遊んだのはテレビゲームだったかもしれない。いとこみんなで(なんなら親たちも集えば家族みんなで)、当時主流だった任天堂64と、ブームの去ったスーパーファミコンをハマってやっていた。64だと大乱闘スマッシュブラザーズ、みんなでゴルフ、マリオパーティなんかを。スーパーファミコンだとスーパーぷよぷよスーパーマリオカート星のカービィスーパーデラックスなんかを。いとこ7人に対してコントローラーは64で4つ、スーファミで2つだから代わりばんこしながら 遊んでいた。宿題タイムが終わるとほとんどずっとゲームをしていた。誰がどのキャラクターを使いがちか、何Pの穴に何色のコントローラーを刺すか、なんてこともほとんどお決まりがあった。

 

ゲームに疲れたら外に遊びに行った。外はセミがギャンギャン鳴いているのだけどお構いなしに。ばあちゃんの家の裏の歩いて2分くらいのところには少し開けたお宮があって、お宮の上に上がったり祠の裏に隠れたり木の壁に開いた穴から覗いて逃げ隠れができるので、おにごっこやらかくれんぼをよくしていた。祠のお宮は木も生い茂っていたから比較的日陰もあって遊びやすかった。私は外で遊ぶときは、どこよりもお宮が好きだった。

 

近くに2つ、公園もあった。ひとつはラジオ体操の公園で、もう一つはそこより少し狭いけれど遊具のある公園。といっても遊具の種類はそう多くなかったけど、ゲームに飽きたりゲームの順番が回ってこなくなればお宮へ、お宮に飽きれば1つ目の公園へ、それでも飽きれば2つ目の公園へ、とみんなで仲良くグルグル回っていた。時々、地元の子供と公園で鉢合わせたりしていた。新学期が始まったってこれっきり。人目気にせず自分たちの好き放題して遊んでいたように思う。

 

ばあちゃん家は、海の近くで、海といっても漁師の海という感じでリゾート的な海ではないような。海岸には生ゴミが捨てられていたりして少し臭くて、海の水もそれほど透き通っていなくて、サギやカモメがゴミを狙っているのか多く居た。それがばあちゃん家の近くの海。海に行って防波堤のセメントの隙間に隠れたり出てきたりするサワガニを見つけては急いでそこらの雑草の茎で手作りしたワナでハサミを通しては引っ掛けて捕まえた。そして飽きたら逃がしていた。海の端っこは防波堤がどこまでも続いていた。自転車に乗って今日はどこまで行けるかといとこたちと自転車行列を作って遠くまで走った。遠くまで行きすぎて帰りが遅くなったときは気になって迎えに来た同じく自転車に乗ったじいちゃんと帰り道に鉢合わせたりした。今日はどこまで行ったんや、そうか、とかいう話をしながら ばあちゃんの家に帰った。

 

近所に飼い犬がいた。夜ご飯に食べた骨付きのチキンや煮魚なんかの残りを犬にあげに出たりしていた。犬は美味しそうにバキバキと骨を食べた。

 

夏休みの間で1日だけ、夏祭りの日があった。夜になると一人一本うちわを持って、ラジオ体操と同じ公園へ向かう。地元の盆踊り大会。地元の子供やその親やじいさんばあさんたちが集って提灯を囲って踊った。知らない曲だけど、ばあちゃん家の近所の盆踊りではいつもかかっている曲。じいちゃんが踊っているのは覚えてないけれどばあちゃんは踊っていたと思う。それこそ知り合いもいないものだったからばあちゃんを手本に見よう見まねで踊ったりしていた。盆踊りが終わると参加した子供たちはみんなお菓子の袋がもらえて、それを目当てに踊りに行っていた。ばあちゃん家の家に帰って、袋を開けてベビースターラーメンやサイダーなんかが入っているのが嬉しかった。

 

ばあちゃん家は楽しすぎて、毎年夏休みが終わって自宅に帰るのがすごく嫌だった。いとことも離れ離れになって、また冬休みとか次の夏休みとかまで会えないでそれぞれが学校に通うことを思うとやるせなくて寂しかった。自宅に帰ってから次にばあちゃんの家にもっていった服に頭を通すとき、ばあちゃんの家の匂いがして想い出がバーッと蘇る気がするのがなんともいえない気持ちだった。

 

 

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そういうことが私が小学生(7~12歳)の頃の話で、中学生にもなるとそれぞれが部活動などを始めてそれを優先するようになって、夏休みにばあちゃんの家に行ってもいとこが全員そこに揃うことはなくなった。みんなが高校生になり、大学生になり、社会人になった。

1年前にばあちゃんの家に行ったとき、時の流れをぼんやり感じた。ばあちゃんは足が悪くなったからもう2階まで階段を上がることはなくなったし、私ももう宿題もテレビゲームもすることはない。盆踊りも踊らないしお菓子は貰えない。高くて手の届かなかった天井の敷居に手が届くようになった。時がたって畳や廊下がきしむ様になっていて、トイレはいつからか和式から洋式に代わり、横に手すりが取り付けられていた。犬はずっと前に死んだし、近所のおじいさんも少し前に亡くなっていた。そのおじいさんの家族に雑談がてら話を聞けば、病院や土地の話が尽きなかった。

 

 

あんまりに家にいてもやることがなかったので一人で自転車に乗って散歩に出た。昔は一人でいろんなところまで足をのばすことはなかったけど、今は何となくの方向もわかるし、スマホがあるからGoogle Mapを開けはどこへ行ってしまったって家には戻れるようになった。田んぼの中の細い道をあえてジグザグに縫いながら、知らない方向へ走った。ただ田んぼが緑で空が青かった。数年前に購入したミラーレスカメラで撮った景色は、想い出の景色ではないその日初めて見た景色だったけど、なんとなくこんなような長閑な風景が私の中でばあちゃん家だなあと思えた。空が広くて解放されるような。無意識に昔のことを思い出してしまうような。

 

ばあちゃん家に戻ると、一緒に帰省した父が海の方まで散歩しないかと自分も自転車を取り出してきていた。昔走ったどこまでも続く防波堤を同じように走った。あまりにもどこまでいっても同じ防波堤なので、あそこまでと見切りをつけて、そこにつくと自転車を止めて防波堤の脇にある細い階段から海のほうへ出た。海の水は引いていて黒い砂の干拓と穴の開いた貝殻とアオサが散っていた。ただそこを歩いてみて、相変わらずきったねえなあ、とか言いながらもカニがいないかセメントの間を探したりしていた。父は昔からこうやって生きてきて変わらないでいるんだろうと思った。

 

 

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ばあちゃんは認知症のお薬が始まって、膝も悪くなって、血圧のお薬を数種類のんでいる。でもまだ、私の顔を見て私の名前を出してくれる。小さい頃の私はいとことばかり遊んで、ばあちゃんとあまり面と向かって喋らなかった。だけど最近は、仕事の影響も少なからずあってからか、話を聞きたいと思って喋るようになったと思う。

あまり話題に上ってこないじいちゃんのことだが、耳は遠いけどその他はわりと健康で、でも小さい頃から私の名前を憶えてはくれていない。これは孫や嫁が多くて覚えきれない問題が別としてあるのだと思う。だけど昔からいつもニコニコしていて、怒ったところを見たことがない。部屋の掃除と花壇の手入れと大きな魚を裁くことと重い荷物を持つことと風呂を沸かすことだけにおいては自分の仕事だという責任感がある人で、逆をとればそれ以外はあまりやっているところを見たことがない。そういうのもあって、私は「じいちゃん家」と呼ばないで「ばあちゃん家」と呼んでしまっているのではないかと思ったりもする。

夜ご飯もお風呂も終わったらテレビを見ながら団らんする時間があって、じいちゃんとばあちゃんはテーブルの向かい同士に座っていつも昔話を延々と繰り返すのだが、毎日これが続いてるのかと思うとケンカも混じっているけれど最後には笑っているので相当仲がいいと思う。父はいつも同じ内容の会話だと苦笑いしている。

 

わたしはばあちゃん家といえば細々とこれらのようなことを覚えていて、懐かしい気持ちになって、忘れたくないなあなんて思っていて、その感覚を思い出しにばあちゃん家に行きたくなったりときどき父に付いて行くことがあるけれど、果たしてほかのみんなはいま何を覚えていてるのだろうか。